ウァリー・ノイツェルという名の光

エゴン・シーレが好きだ。もともとは坂崎乙郎さんの著書「エゴン・シーレ 二重の自画像」を学生時代に読んでから。先に言うと私は美術全般にまったく明るくない。

現在手元に残っているのは「エゴン・シーレ 二重の自画像」「エゴン・シーレ:ドローイング水彩作品集」のみになった。正確には坂崎乙郎さんの、シーレや作品に対する眼差しが好きだった。その眼差しによって照らされたシーレのモデルであり、恋人だったウァリーが好きだ。

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エゴン・シーレ 『ウァリー』1912年

エゴン・シーレとは1890年~1918年に生きたオーストリアの画家で、28歳で夭逝している。たくさんの自画像や性に淀みのない作品を残していて、その短い生涯で後世に評価された芸術性は喪失の物語だった。2016年にドイツで映画化され、2017年には日本でも劇場公開された。私は観ていません。

シーレが創作活動の中で最も師事した人物がグスタフ・クリムトだった。クリムト展では接吻やダナエ、ユディトがよく主題として扱われている。

 

『接吻』- グスタフ・クリムト
  

 『ダナエ』- グスタフ・クリムト
  

『ユディトI』- グスタフ・クリムト

クリムトからモデルとして紹介されたのがハチミツ色の髪に青い瞳を宿した、ウァリー・ノイツェルだった。当時彼女はクリムトのモデルとしてお金を稼ぎ、17歳だった。ウァリーとシーレはモデルと画家として時間を重ねていくにつれ、恋愛関係になっていく。

シーレはそれまでも孤独な自画像を描きつづけてきた。だが、ウァリーの嘗めてきた人生体験の深さはシーレの想像を超えていたし、彼の文学的とも云える人生体験に比較すれば、ウァリーには救いがなかった。

クリムトに紹介されて、彼女は、別の画家のモデルとなる自分に、なんの夢も希望も抱いてはいなかったろう。モデルは職業であり暮らしの方便であり、相手が代わったにすぎない、と彼女は考えていたにちがいない。

坂崎乙郎 『エゴン・シーレ 二重の自画像』

17歳という若さで自ら生活費を稼いでいた彼女の暮らしは、決して豊かなものではなかったのかもしれない。シーレは芸術に寛容なウィーンから、物価の安い田舎のアトリエへと移り住み、ウァリーとの同棲生活を始める。代償として、保守的な文化が色濃く残る住民たちから彼の絵に対する理解を得ることは不可能になった。シーレが表現したものは性に対して直接的で、神秘のベールで隠すようなことはしなかった。絵のモデルに娼婦を呼び、ある時は少女が少ない賃金を求めて衣服を脱ぎ、シーレの繊細な線がモデルを描写していく。シーレは住民たちから孤立していった。孤立の果てに別の地へと身を移し、拒絶と逃避、その繰り返しの旅だったが、ウァリーがシーレの隣から離れることはなかった。

何度目かの引越した地で、未成年者誘拐のえん罪でシーレは逮捕され、1ヵ月近くを牢獄の中で送ることになる。アトリエに踏み込んだ警察は『卑猥なデッサン』が並ぶ光景を目にし、シーレの目の前でデッサンを燃やされたという記事を読んだ。当時のシーレの心情を想像するだけで胸が張り裂けそうになる。他者からの凄まじい否定、拒絶、投獄。えん罪が立証されるまでの間、獄中でも自画像や静物画を残している。

ウァリーは足しげく面会に訪れ、牢に備え付けられた小さな窓越しにシーレのために食べ物を投げ入れていた。釈放されたシーレを迎えに現れた人の中に、ウァリーの姿があった。間違いなく彼は一人の人間として、一人の人間から愛されていた。この世にこれ以上の幸せはないと私は思う。獄中での絶望でしかない深い孤独の中で生きていられたのは、ウァリーの存在であり暖かく優しい光だったのではないか。

孤独には二つある。肉体の孤独と魂の孤独が。人は後者では死ぬが、前者では死なない。

坂崎乙郎 『エゴン・シーレ 二重の自画像』

貧しい二人暮らしの中で、シーレ宛てに仕送りをせがむ母からの手紙が残されていて、経済的な困窮はシーレを苦しめていた。あるときシーレは中流階級の姉妹と出会い、どちらかと結婚することでこの貧困から抜け出そうとした。決して失ってはいけないウァリーを一人残して。

ウァリーはシーレの元を去った。愛しあった二人は二度と再会することがないまま、ウァリーは従軍看護婦として訓練を受けクロアチアに派遣され、ウィーンから遠く離れた異国の地で一人病死している。まだ23歳だった。シーレとの出会いからたった6年後のことだった。

シーレは後に自身とウァリーをモデルに『死と乙女』を描いている。シーレの死後、代表作の一つに数えられた。『死と乙女』の「死」は何処に係っているのだろうと想像する。ウァリーのその後の行く末を暗示しているような読み方もできそうだけれど、二人の肌の血色から、死はシーレ本人に係っているのではないか。伝聞や手記などで残っている彼女の健気さ以上のものをシーレは体験として彼女から受け取っていたはずで、絶望のなか傍で支えつづけてくれた彼女を捨て去った。シーレの心の一部は文字通りそのとき死んでしまった。ウァリーはシーレのその死んでしまった部分を愛し抱きしめてくれていたのに。そんな風にこの絵を見て思う。

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エゴン・シーレ 『死と乙女』1915年

坂崎乙郎さんは、『死と乙女』に対して以下のように触れている。
※原題「Tod und Mädchen」を著書では『死と少女』と訳されている。

シーレの芸術的生命が断たれたのである。作品<死と少女>の死神が掴んだのはウァリーの運命ではなくシーレのそれであり、<死と少女>は以後の彼の作品に痛烈な報復を加えた。

(中略)

絵の迫力はただひとつ、奈落に投ずるウァリーの激しさで、死神、すなわちシーレは添物にすぎない。シーレの開いた瞳孔。これから先、彼が彼の自画像で死ぬまで劇画化してゆく痴呆の前ぶれ、悔恨の予兆。

坂崎乙郎 『エゴン・シーレ 二重の自画像』

シーレと同じ時代を生きた画家、オスカー・ココシュカについても触れられている。
彼と恋愛関係にあった女性アルマ、そんな二人をモデルに制作したココシュカの代表作が『風の花嫁』だった。アルマは『風の花嫁』制作の2年後、ココシュカとの関係に終止符を打ち、後に別の男性と結婚している。

ココシュカはアルマへの想いを断ち切ることができず、深い絶望の中に身を置くことになった。癒しがたい喪失の痛みを抱えたまま、更なる痛みで覆い隠すかのように第一世界大戦に志願兵として出兵した。

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オスカー・ココシュカ 『風の花嫁』1913年

彼は戦場で頭部に大けがを負うことになる。ココシュカを射抜いた傷は、画家にとって大切な平衡感覚を掌る器官を奪い去った。彼の手のひらから零れ落ちた最愛のアルマ、画家としての調和や秩序。どちらも失い、どちらも失ってはいけいないものだった。傷病兵として帰国後、傷つき失いつづけた彼を出迎える人の中にアルマの姿はなかった。

彼は二度と<風の花嫁>のような傑作を描くことはなかった。

坂崎乙郎 『エゴン・シーレ 二重の自画像』

作品にただよう深い眠りに落ちるような静かな幸福感や、その後を知っているが故に感じる儚さ。人の営みとして当たり前に起こる悲劇たちが彼らにも襲い掛かり、地に膝をついた人間の姿に心を揺さぶられた。

先日、再読したことをきっかけに、坂崎乙郎さんの著書情報を調べた。1985年12月に自死していることを知った。「エゴン・シーレ 二重の自画像」は1984年6月に発刊されており、彼の絶筆となっていた。これを知ったとき、何とも言えない寂しさが体中を包み込んだ。

この本は、時代や国や文化も異なるどこか遠い存在に感じた画家たちが、私と同じ人間だったこと、悲劇の先にどうあろうとしたのか、悲しさと優しさの灯りとして静かに本棚に並んでいる。

絵画とは虚構以外の何者でもない。絵画のリアリティはこの虚構の中に蔵されている。クールベがあたかも認知可能な物質を描いたのも、セザンヌが打ち開かれた感覚の状態で対象と交換可能な世界を気付いたのも、それぞれ方法こそ違え、虚構であるのに変わりはない。プルードンの犯した最大の誤解は、プルードンのみならず、現在も多くの絵画鑑賞家が犯す最大の誤解は、絵画のリアリティを現実と混同し、どれだけ真に迫っているかを、評価の基準にする点にある。

その意味で、画家は絶えず現実との抗争をくりかえしてきた。現実世界に組みしかれ、現実世界と何らかの形で妥協したものは、敗北した。

画家の目は、現実世界をつらぬいて、現実の彼方に向けられている。

坂崎乙郎 『エゴン・シーレ 二重の自画像』