nowhere now here

涼しい夜。鈴のような虫の鳴き声が心地いい。日没の時間は半月前からおおよそ1時間近く早くなった。毎年、夏の終わりは猛烈な暑さを残すか、あるいは台風が夏を連れ去り、季節を秋へと変えていく。年を追うごとに秋は冬の姿をして訪れるが、今年はどうなのだろう。ふと窓へ視線を向けると月が浮かんでいた。それがあまりに綺麗で、照明を落としてベットに寝ころび、ぼんやりと夜空を眺めていた。

残念ながら、なんの親しみも持てない8月だった。今年になって2度目の風邪を引き、思っていたよりも長患いをしてしまい、計画していたタスクのほとんどが中途半端なまま残ってしまった。休むことがつくづく下手で、休んでいるはずなのに徐々に心は枯れていった。体の方は寛解しているようだが、未だに咳だけがつづいている。ウイルスのキャリアになっている可能性もあって外出時にはマスクを外さなくなった。見知らぬ誰かが見知らぬ誰かの大切な人であったならいいなと漠然と思う。

去年も秋口ごろだったかに夜涼みについて書いていたことを思い出す。ゴッホの星月夜だったか。絵からほとばしる生命力が苦手だ云々。1年経ってすこしだけ見方が変わった。前述の夏の終わりに焦点を当てると、消滅の瞬間は儚くも烈しい燃焼にも見える。一日を締めくくる燃え尽きるような落日のように。星月夜が、ゴッホが見た星の瞬きや月明りのまさに極限の瞬間をキャンバスに描いた作品なのだとしたら、それが当時感じた生命力の正体だったのかなと思う。中国の太極図だったか、陰と陽のサイクルの中で一方が極まれば、それは対極をすでに内包しているという思想、だったはず。生と死、月と太陽、夏と冬、善と悪、美と醜、快楽と苦痛。星月夜では極まった瞬間に朝を予感させはしなかった。対立する存在が確かにあるのに。何故だろうとベッドの上でゴロゴロする。太極図の陰と陽が境界線で他者から与えられた名前であり、それがある瞬間を表現した状態だとしたら、極限の在り処は一人ひとりに収束していく。なんだ、そうだったのか、と思う。

流れる雲を照らして輪郭を朧気にしたり、数分後には雲を送りだすその姿に見とれる。
「ほんとうにきれいやなー」に尽きた。

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