見失ったとして。私である意味とか

児童小説『カモメに飛ぶことを教えた猫』は自分にないものを、他者にあげることなんてできるのか、そういう問いとの出会いだった。

主人公の黒猫は、ひん死の雌カモメと3つの約束をする。卵を食べないで、ひな鳥が生まれるまで大切に育ててあげて、ひな鳥が成長したら飛ぶことを教えてあげて。

寓話として、他者への敬意や尊重、自分を規定するものは自分、挑戦にともなう勇気、そういうお話だったのかもしれない。ひな鳥はやがて銀色に輝く羽をもつ飛べないカモメになった。カモメは自分を猫だと語り、黒猫はあるがままのカモメに寄りそい、青空のもとで日向ぼっこをする。青空のかなたには、銀色にかがやく翼をひろげたカモメたち、飛べないカモメは、はじめて空を飛びたいと願う。それは黒猫に託された3つ目の約束だった。

雨にさわってごらん。雨を感じてごらん。きみの好きな水だよ。きみには好きなものや、幸せを感じるものが、たくさんあるだろう。そのひとつが、水と呼ばれているものなんだ。もうひとつは風、そしてもうひとつは、太陽だよ。雨の後、ごほうびのように現れる太陽だ。風は気持ちがいいかい?

『カモメに飛ぶことを教えた猫』 - ルイス・セプルダ 訳)河野万里子

黒猫はカモメに飛び方を教えることはできなかった。けれど、好きなもの、幸せに感じるもの、それが誰かにとって取るに足らないものだったとしても、その美しさを語りかけた。

以前、日曜美術館だったか、河井寛次郎を扱った番組で知った言葉を思い出していた。

私は木の中にいる石の中にいる 鉄や真鍮の中にもいる
人の中にもいる
一度も見た事のない私が沢山いる
始終こんな私は出してくれとせがむ

私はそれを掘り出したい 出してやりたい
私は今自分で作ろうが人が作ろうがそんな事はどうでもよい
新しかろうが古かろうが西で出来たものでも東で出来たものでも
そんな事はどうでもよい

すきなものの中には必ず私はいる

河井寛次郎

黒猫はカモメに飛び方を教えることはできなかったが、飛ぶことを教えた猫だった。

私にとって宝物のような光景も、誰かにとっては素通りしてしまう景色かもしれない。逆もしかり、それでいい。まだ知らない私の、誰かの、好きがそこあるかもしれない。それが、なにかを与えることができる可能性になる。この本は、そう語りたかったのかもしれない。

もしも『猫に飛ぶことを教えたカモメ』だったとしたら。きっと同じ物語になったのだろうと思う。

そんなことないのに

公共の場で、子供同士のいじめを演出し、通りがかった大人たちの反応を観察するという動画に触れて。なにも知らされていない大人たちは被害者役の子供を助け、加害者役の子供を感情的に、理性的に、道徳観を問いつめていた。

撮影スタッフによって社会実験である旨が伝えられ、大人へのインタビューまでを1サイクルに、くり返しくり返し撮影はつづけられた。加害者役を演じている子供はうつむいて、次第に目にみえて傷つき、憔悴していった。

脚本家は『あなたはひとりじゃない』という表現のために、犠牲を必要とする道を選んでいた。コメント欄に目を移すと、止めに入った大人たちへの称賛にあふれ、それは『あなたはひとり』というまるで真逆の言葉として投げかけているようだった。その子の顔をみて、ちょっとね、我慢できないぐらい傷ついてしまった。

わたしとあなたの、はざま

年始からあまりにも悲しい出来事がつづいて、発作的に故郷への航空券を予約した。帰省したところで、帰る場所はとうに無いのだけれど、何故だか両親のお墓参りをしたいという想いに駆られた。

私は幽霊もご先祖も信じていない。けれど、どこかで信じていたくて、10代の頃は友人から借りたハンディーカメラを片手に、丑三つ時に一人で心霊スポットを訪れては録画しながら散歩をしていた。霧で1m先も見えない中をライトを照らしながら黙々と歩いていると、幻想的な心持になった。目の前にあるはずの物が一面を覆う霧にさえぎられて何もみえない、それだけで私は異空間に迷い込んだ錯覚に陥って、神秘的な何かに出会う予感がした。

同僚とのちょっとした飲み会の場で幽霊の話になったことがあった。信じる派、信じない派で主張は分かれた。聞けば聞くほど、信じている人だからこそ、見える何かがあるのかもしれないという折衷案に落ち着いた。私はどうだっんだろうと思うときがある。

NHKの100分で名著で宗教論をテーマにした回があった。そのなかで、ヒンドュー教において、『与格』という言語体系があることを知った。「私は悲しい」「私はあなたを愛している」というような「主体が話者」である表現とは真逆の発想で「私の心に”悲しいという感情がやってきた”」「私の心に、彼、彼女を愛するという”感情がやってきた”」という話を聞いた。では、どこからその感情はやってきたのか、番組で述べられていたのはヒンドュー教の言語体系のなかに神様が密接に結びつけられているという帰結だった。

私は神様やお化けはいないと思っている。けれど、私が発作的に帰省し両親のお墓参りに駆り立てた何かがあったのは事実で。墓前で聞こえているはずもないのに、「ただいま」なんて言ったりしてみた。ビジネスホテルの窓から見える規則的な蛍光灯を見ながら、どこからこの感情はやってきたのだろうと思う。レンタカーを借りて海岸線を走りつづけた。当日は雨や霧で視界不良もいいとこだった。

・海と空が、霧を媒介にして繋がっててすごく感動したんだー。霧、好きだなー。

 

一瞬だけの永遠を語れたなら

ときおり、空に飛行機雲をみた。ある日、青い空に飛行機雲と白い月が重なっていて、昼が明るい夜なのだとしたら、こういう景色なのかもしれないと思った。

ベランダに置いていたサンダルに小さな枯れ葉がくっついていて、手に取ったそれは可愛い抜け殻のようだった。私は冬のことが好きだ。思い出がはく息はいつも白くて、その息に触れた影は歳を重ねるごとにかすれていった。

今年に入って三度目の風邪を引いた。もうろうとしながら風邪薬を飲んで、数日のあいだひたすら眠りつづけた。いい匂いがした。優しくて何もかもを包みこんでくれるような、優しい匂いだった。目を覚ますと夢を見ていた感覚だけが残った。何ひとつ覚えていない夢なのに、そんな過去を私は知っている気がした。

空気を入れ替えるために窓を開けると、ベランダにあった枯れ葉たちはどこかに消えていた。ほんとうに、数日前にはそこにあったのに。

nowhere now here

涼しい夜。鈴のような虫の鳴き声が心地いい。日没の時間は半月前からおおよそ1時間近く早くなった。毎年、夏の終わりは猛烈な暑さを残すか、あるいは台風が夏を連れ去り、季節を秋へと変えていく。年を追うごとに秋は冬の姿をして訪れるが、今年はどうなのだろう。ふと窓へ視線を向けると月が浮かんでいた。それがあまりに綺麗で、照明を落としてベットに寝ころび、ぼんやりと夜空を眺めていた。

残念ながら、なんの親しみも持てない8月だった。今年になって2度目の風邪を引き、思っていたよりも長患いをしてしまい、計画していたタスクのほとんどが中途半端なまま残ってしまった。休むことがつくづく下手で、休んでいるはずなのに徐々に心は枯れていった。体の方は寛解しているようだが、未だに咳だけがつづいている。ウイルスのキャリアになっている可能性もあって外出時にはマスクを外さなくなった。見知らぬ誰かが見知らぬ誰かの大切な人であったならいいなと漠然と思う。

去年も秋口ごろだったかに夜涼みについて書いていたことを思い出す。ゴッホの星月夜だったか。絵からほとばしる生命力が苦手だ云々。1年経ってすこしだけ見方が変わった。前述の夏の終わりに焦点を当てると、消滅の瞬間は儚くも烈しい燃焼にも見える。一日を締めくくる燃え尽きるような落日のように。星月夜が、ゴッホが見た星の瞬きや月明りのまさに極限の瞬間をキャンバスに描いた作品なのだとしたら、それが当時感じた生命力の正体だったのかなと思う。中国の太極図だったか、陰と陽のサイクルの中で一方が極まれば、それは対極をすでに内包しているという思想、だったはず。生と死、月と太陽、夏と冬、善と悪、美と醜、快楽と苦痛。星月夜では極まった瞬間に朝を予感させはしなかった。対立する存在が確かにあるのに。何故だろうとベッドの上でゴロゴロする。太極図の陰と陽が境界線で他者から与えられた名前であり、それがある瞬間を表現した状態だとしたら、極限の在り処は一人ひとりに収束していく。なんだ、そうだったのか、と思う。

流れる雲を照らして輪郭を朧気にしたり、数分後には雲を送りだすその姿に見とれる。
「ほんとうにきれいやなー」に尽きた。

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Beauty is Within you

小雨の降る涼しい夜だった。自宅から1駅分だけ手前で電車を降り、歩いて帰った。誰もいない歩道や誰かがいた街灯、規則的に灯るマンションの照明、それらを写真に収めながら歩いていた。見えているもの、見ようとしているもの、なにを被写体にしているのか自分でも定まらないものばかりが常になった。

綴られた抽象的な幸福は分からないのに、抽象的な悲哀には共感した。体験した悲しみを経由して幸せを想像する術は祖母から学んだのだと思う。だから自己救済の側面を持った創作物に惹かれつづけるのかもしれない。お盆だからか、ここ数日は祖母のことばかりを思い出していた。

母の葬儀中、祖母は弔問客の応対に追われる息子を素通りし、赤子だった私を抱き上げると突然泣きだしたと聞かされた。悲しみの只中にあった私の瞳に悲しみの色が欠片もなかったからだった。喜びの欠如は喜びではないのに、悲しみの欠如はそれだけで悲しみになった。

それから9年間祖母に育てられ、本や絵が好きだった彼女の心が私を形成していった。算数がやたら得意だった祖母の影響で数の世界が好きになった。今はどうか分からないけれど、私が小学生のころは四則演算を習い終わると角度や面積、そのあとに図形の単元になった。学校で学ぶよりも先に祖母から三平方の定理を教わり、直角三角形の2辺の長さが分かれば、もう1辺の長さも分かるという解法に『誰も見たことがないものでも、ある情報さえ揃えばその姿が分かる』というまるで魔法のような言葉に神秘的な想いを膨らませた。

じゃあこんなのはどう?と、1辺の長さしか分からない場合に角度と比で残り2辺の長さを求める方法を教わって更に興奮した。聞きたいことが山のようにあった。そもそも円が360度だということが当時とても疑問だった。10cmの紐を円にして120度ずつ切れば綺麗に3等分にできるのに、10を3で割り切れないのはどうして?と問う私に、違う引出しにしまってそうな道具をよくひっぱり出せたね、と頭を撫でてくれた。円が360度なのは人が作ったからで、割合は自然が作ったからなんだよ。だから辻褄が合わないときがある。1/2ずつ距離が近づいても数の世界では永遠に触れることができないでしょ。おばあちゃんはこの1/2ずつ近づいても『永遠に出会えない儚さ』が胸を打つんだけどね。聞いている私の心境は魔法使いのお師匠様と弟子だった。

彼女によく後ろから抱きついた。そのたびに大好きだと言いつづけた。私の小さな世界の中で誰よりも憧れた人だった。けれど、私が高校生に上がって間もなく彼女は病に倒れ、本当に永遠に出会えないところへ行ってしまった。彼女と1/2ずつでも近くにいたくて棺の中へ2人で撮った写真を添えた。後からお坊さんに生きている人間の写真が棺に入るのは縁起がよくないのだと窘められ手元に戻ってきたが、お坊さんの言われる縁起よりも私は魔法使いを信じていた。冷たくなった彼女の温かかった胸元にもう一度写真を託した。死者が生者に寄り添うことなんてできないのだと認識したのはそのずっと後だった。

時が経ってカオス理論やフラクタル理論で扱われるストレンジ・アトラクターと出会う。カオスは特定の力学系に束縛されながら将来の予測がとても困難な構造を持つ数学モデルで、分かりやすい例だと気象学でもパラメーターに設定した初期値の微々たる変化で積分した結果が大きく変わってしまい、長期的な予測が困難なものとして扱われてきた。初期値敏感性、初期値鋭敏性と言われるが、バタフライエフェクトという名前のほうが有名だと思う。ストレンジ・アトラクターは目に見えない空間に惹かれるように近づいていき、時間経過の過程で二度と同じ答えを返さない。以下の図はローレンツ方程式という方程式を使ったストレンジ・アトラクターの時間経過の推移なのだけど、赤、青、緑の各始点はある空間に惹かれながら二度と同じ軌道を描かない曲線、決して出会うことがない空間を表している。祖母が語っていた『永遠に出会えない儚さ』そのもので、それは祖母との再会でありがながら交わることのない悲しさでもあった。

アトラクター - Wikipediaja.wikipedia.org

以下に引用した抽象的な言葉が意味をたずさえ胸に触れた。

家々は去りがたいなつかしさを持っているにもかかわらず、垣根が私の視線をはばむのである。
ときおり、この名づけようのない悲しみの底から、はしゃぐような子供の笑い声がひびいてくる

『絵画への視線』 - 坂崎乙郎

『永遠に出会えない儚さ』が彼女とつながっている糸のひとつとなり、その軌跡が出会うことのない人を包みこみ、像を作っていった。

彼女と過ごした日々を思い出しては雨が降った。追憶という名前に変わって何年も経ったが、満ち欠けを繰り返しながら胸の中でいまも揺れつづけている。

私の1/2の最愛の人に寄せて。

ともだちの定義

10年以上の付き合いになる友人がいる。あるとき、老人になってもこんな風な関係でいられたらといいね。と彼女が言った。よくある話だと思うが、私はこの手の話が嫌いで仕方がない。誰かのみる夢や想いは曖昧で、いつからかその夢や想いが私に向かうとき、なにも期待しないようになった。期待しないことで彼女を信じることができた。

やがて訪れる別れのとき、あの時間は美しい夢だったと思い出が知らせにやってくる。

共通の知人と話す機会があり、その知人から彼女が私という友人を「失ってしまった」のだと聞かされた。思わず笑ってしまった。私は友人だと思っているが、彼女にとって私はもう友人ではなくなっていた。別れはいつだって相手のほうから離れていったとお互いが思っているものらしい。

実はそんな友人に先日LINEを送っていた。

「さいきん暑いね。元気にしてる?」

既読になったが返信がくることはなかった。ずっと○○でいたいね。そんな安くて優しくて夢のような言葉たちが年月を重ねていくとどんどん儚い言葉に形を変えていく。愛しくて愛しくて悲しい言葉に変わっていく。