Beauty is Within you

小雨の降る涼しい夜だった。自宅から1駅分だけ手前で電車を降り、歩いて帰った。誰もいない歩道や誰かがいた街灯、規則的に灯るマンションの照明、それらを写真に収めながら歩いていた。見えているもの、見ようとしているもの、なにを被写体にしているのか自分でも定まらないものばかりが常になった。

綴られた抽象的な幸福は分からないのに、抽象的な悲哀には共感した。体験した悲しみを経由して幸せを想像する術は祖母から学んだのだと思う。だから自己救済の側面を持った創作物に惹かれつづけるのかもしれない。お盆だからか、ここ数日は祖母のことばかりを思い出していた。

母の葬儀中、祖母は弔問客の応対に追われる息子を素通りし、赤子だった私を抱き上げると突然泣きだしたと聞かされた。悲しみの只中にあった私の瞳に悲しみの色が欠片もなかったからだった。喜びの欠如は喜びではないのに、悲しみの欠如はそれだけで悲しみになった。

それから9年間祖母に育てられ、本や絵が好きだった彼女の心が私を形成していった。算数がやたら得意だった祖母の影響で数の世界が好きになった。今はどうか分からないけれど、私が小学生のころは四則演算を習い終わると角度や面積、そのあとに図形の単元になった。学校で学ぶよりも先に祖母から三平方の定理を教わり、直角三角形の2辺の長さが分かれば、もう1辺の長さも分かるという解法に『誰も見たことがないものでも、ある情報さえ揃えばその姿が分かる』というまるで魔法のような言葉に神秘的な想いを膨らませた。

じゃあこんなのはどう?と、1辺の長さしか分からない場合に角度と比で残り2辺の長さを求める方法を教わって更に興奮した。聞きたいことが山のようにあった。そもそも円が360度だということが当時とても疑問だった。10cmの紐を円にして120度ずつ切れば綺麗に3等分にできるのに、10を3で割り切れないのはどうして?と問う私に、違う引出しにしまってそうな道具をよくひっぱり出せたね、と頭を撫でてくれた。円が360度なのは人が作ったからで、割合は自然が作ったからなんだよ。だから辻褄が合わないときがある。1/2ずつ距離が近づいても数の世界では永遠に触れることができないでしょ。おばあちゃんはこの1/2ずつ近づいても『永遠に出会えない儚さ』が胸を打つんだけどね。聞いている私の心境は魔法使いのお師匠様と弟子だった。

彼女によく後ろから抱きついた。そのたびに大好きだと言いつづけた。私の小さな世界の中で誰よりも憧れた人だった。けれど、私が高校生に上がって間もなく彼女は病に倒れ、本当に永遠に出会えないところへ行ってしまった。彼女と1/2ずつでも近くにいたくて棺の中へ2人で撮った写真を添えた。後からお坊さんに生きている人間の写真が棺に入るのは縁起がよくないのだと窘められ手元に戻ってきたが、お坊さんの言われる縁起よりも私は魔法使いを信じていた。冷たくなった彼女の温かかった胸元にもう一度写真を託した。死者が生者に寄り添うことなんてできないのだと認識したのはそのずっと後だった。

時が経ってカオス理論やフラクタル理論で扱われるストレンジ・アトラクターと出会う。カオスは特定の力学系に束縛されながら将来の予測がとても困難な構造を持つ数学モデルで、分かりやすい例だと気象学でもパラメーターに設定した初期値の微々たる変化で積分した結果が大きく変わってしまい、長期的な予測が困難なものとして扱われてきた。初期値敏感性、初期値鋭敏性と言われるが、バタフライエフェクトという名前のほうが有名だと思う。ストレンジ・アトラクターは目に見えない空間に惹かれるように近づいていき、時間経過の過程で二度と同じ答えを返さない。以下の図はローレンツ方程式という方程式を使ったストレンジ・アトラクターの時間経過の推移なのだけど、赤、青、緑の各始点はある空間に惹かれながら二度と同じ軌道を描かない曲線、決して出会うことがない空間を表している。祖母が語っていた『永遠に出会えない儚さ』そのもので、それは祖母との再会でありがながら交わることのない悲しさでもあった。

アトラクター - Wikipediaja.wikipedia.org

以下に引用した抽象的な言葉が意味をたずさえ胸に触れた。

家々は去りがたいなつかしさを持っているにもかかわらず、垣根が私の視線をはばむのである。
ときおり、この名づけようのない悲しみの底から、はしゃぐような子供の笑い声がひびいてくる

『絵画への視線』 - 坂崎乙郎

『永遠に出会えない儚さ』が彼女とつながっている糸のひとつとなり、その軌跡が出会うことのない人を包みこみ、像を作っていった。

彼女と過ごした日々を思い出しては雨が降った。追憶という名前に変わって何年も経ったが、満ち欠けを繰り返しながら胸の中でいまも揺れつづけている。

私の1/2の最愛の人に寄せて。