わたしとあなたの、はざま

年始からあまりにも悲しい出来事がつづいて、発作的に故郷への航空券を予約した。帰省したところで、帰る場所はとうに無いのだけれど、何故だか両親のお墓参りをしたいという想いに駆られた。

私は幽霊もご先祖も信じていない。けれど、どこかで信じていたくて、10代の頃は友人から借りたハンディーカメラを片手に、丑三つ時に一人で心霊スポットを訪れては録画しながら散歩をしていた。霧で1m先も見えない中をライトを照らしながら黙々と歩いていると、幻想的な心持になった。目の前にあるはずの物が一面を覆う霧にさえぎられて何もみえない、それだけで私は異空間に迷い込んだ錯覚に陥って、神秘的な何かに出会う予感がした。

同僚とのちょっとした飲み会の場で幽霊の話になったことがあった。信じる派、信じない派で主張は分かれた。聞けば聞くほど、信じている人だからこそ、見える何かがあるのかもしれないという折衷案に落ち着いた。私はどうだっんだろうと思うときがある。

NHKの100分で名著で宗教論をテーマにした回があった。そのなかで、ヒンドュー教において、『与格』という言語体系があることを知った。「私は悲しい」「私はあなたを愛している」というような「主体が話者」である表現とは真逆の発想で「私の心に”悲しいという感情がやってきた”」「私の心に、彼、彼女を愛するという”感情がやってきた”」という話を聞いた。では、どこからその感情はやってきたのか、番組で述べられていたのはヒンドュー教の言語体系のなかに神様が密接に結びつけられているという帰結だった。

私は神様やお化けはいないと思っている。けれど、私が発作的に帰省し両親のお墓参りに駆り立てた何かがあったのは事実で。墓前で聞こえているはずもないのに、「ただいま」なんて言ったりしてみた。ビジネスホテルの窓から見える規則的な蛍光灯を見ながら、どこからこの感情はやってきたのだろうと思う。レンタカーを借りて海岸線を走りつづけた。当日は雨や霧で視界不良もいいとこだった。

・海と空が、霧を媒介にして繋がっててすごく感動したんだー。霧、好きだなー。