「ただいま」とか「おかえり」を求めた日

長年使っていた茶碗を二つたてつづけに割ってしまった。一つは実家から持ってきたもので、もう一つは誰のためのものだったか。いずれ壊れてしまう「用」の物だからと数百円で新しいものに買いかえた。朝から天気がよく、春の水と陽気で洗ったスニーカーは見違えるほど真っ白になった。

心療内科のロビーで診察の順番を待っていると、嗚咽をもらして泣いている女性がいた。隣には母親らしき人が無言で彼女の背中をさすり、ときおりスピーカーから流れる抑揚のないアナウンスと、彼女の嗚咽が耳のなかで行き場がないと反響しつづけた。受診までのあいだ、真っ白になったスニーカーから視線を上げられなくなる。

病院からの帰り道、スマホで帰りの路線で起きた人身事故と運休を知った。病院から30分ほど歩くと港にでる。夕時、海と陸地を隔てた手すりの近くあるベンチに腰を下ろした。空も海も境界線でさえ青い景色と出会い、後ろについてきた影を手放すように遠い海を眺めた。

目を凝らすと空に白く薄い月が浮かんでいて、日没になると月も太陽に照らされ赤くなった。夕日の後ろにあるものを初めて体験として知った日だった。心持ちは遭難に近いのに今年に入って心を打つ作品との出会いが増えた。

まばらにいた人も日が落ちきって一人二人と港から去っていき、気づくとカメラで月を撮影している女性と私だけになっていた。私も真似をしてスマホで月を撮ってみる。肉眼で見えているそれよりも表情に乏しい、空の色も脚色されてしまい違う景色が手元に残った。

寒さで指先の感覚がなくなり腰を上げた。私の稚拙な腕で撮ったものと、瞳に残ったものが心に浮かびつづけた。運転を再開した電車に揺られ、車窓から街灯やマンションの窓からもれ出た灯りが後ろに後ろに流れていく。泣いたり、怒ったり、動作付きの感情が背中をさする手に出会えるのは奇跡のようで、電車は誰かが見た海に映る月を通りすぎ、海に映る月に飛び込まなければならなかった人も通りすぎて───