『どうせなにもみえない』

一見して写真と見間違うほどの超写実的な絵画は、乱暴な言い方をするとデジタルカメラのシャッターボタン一つで代替可能に見えた。2020年、渋谷のBunkamuraで開催された「超写実絵画の襲来」という展覧会に出かけたことがある。公式サイトやパンフレットに掲載された作品は、どれも人の手で描かれた作品とは思えないほど、実体をもってそこに存在しているように見えた。けれど、実際に目の前で作品と向き合うと、印象はまったく変わった。作品に物理的に視線を近づけていくと、確かにインクの伸びや筆の痕跡が形を成してそこにあった。けれど、1~2m離れるとそれはもう写真にしか見えない、また近づいてみる、人の技巧によって制作された作品であることが露わになる。自分の脳みそが一つひとつの情報を、ある距離感を境目に、細部の情報をただの記号として捉えていることを体験した。

写真も解像度の違いこそあれ拡大していけばピクセルの集合体でしかないし、生身の人間も顕微鏡で見れば、細胞の集合体でしかない。描きこむには限界がある。ありのままを描くこと。それは記号として無意識に処理された情報を見つめることを意味するのか、はたまは、抽象化され通りすぎていくものの中から取捨選択していく行為のことなのか。ありのまま" 見る "という行為は抽象化された情報たちに向けられた作者の葛藤のように思えた。

話はそれるけれど、写実絵画はその性質上、1つの作品を描くのに年単位の時間がかかるそうで、膨大な時間と、その密度の分だけモチーフと向き合うための情熱が必要不可欠なのだとか。上述の展覧会で風景画として展示された作品の一つに、飾り気のない無機質なコンクリート階段の踊り場から、階下を眺める風景画の作品があった。「へ...変態さんだ...!」って妙にドキドキしたのを覚えている。作品に傾けられた作家さんの熱量が私の陳腐な想像力を簡単に超えてきて感動したなー。

諏訪敦さんの絵画作品集『どうせなにもみえない』を観た。『どうせなにもみえない』は複数の作品から構成されていて、一眼レフカメラをこちらに構える全裸の女性や、骨格標本の頭蓋骨の眼窩を覗き込む女性など、" 見る "という行為に対して、シリーズ化された作品群で、本作のタイトルもそこからきている。モデルの女性が見つめる瞳や、肌の質感、指関節の皺、髪の毛の一本一本、細部まで描きこまれた作品は、モデルを写実可能な限界点まで分解していく作業のように見えた。

病院のベットで永遠の眠りについた父の姿を描いた『father』『Untitled』は、鼻腔に詰められた綿、上唇と下唇の癒着、細部まで描きこまれた情報たちがモデルの存在を強調させる。けれど、きっと写真であったなら、私は生理的な嫌悪感に襲われていたと思う。頭のどこかで、これは絵だという認識をもって処理をしている。それは何かが抽象化された痕跡でもあったように感じる。

どこまでが私という存在を表現しているのだろうと想像してしまう。仏教の宗派によって、火葬した遺骨のうち喉仏は特別に大切に扱われる。喉仏の形状がお釈迦様が座っているように見えるから、という理由もあるそうだけど、声という要素が故人が生前、ご遺族とを結びつける大切な繋がりだったからなのかもしれないとも思う。

作品集に収められた『恵里子』は30歳の若さで事故死した娘、惠里子さんを偲ぶ父からの依頼によって制作された。モデルが亡くなられている方であるため、制作にあたって手がかりとなるのは、惠里子さんの写真やご両親の骨格だった。触診やご両親自身のデッサンを行い、惠里子さんの生前の骨格を空想しては現実との乖離を埋めていく作業が続いた。

生前、惠里子さんが身に着けていた腕時計を外す仕草が、モチーフとして採用された。"時を刻むことのなくなった"故人を暗示させるものだった。ご両親が何度となく握った彼女の手が作品の重要な要素になった。亡くなった方を絵の中で忠実に蘇らせる試みと共に、失われた手足を蘇らせる人たちもいた。義手義足メーカーに生前の惠里子さんの写真から精巧な義手を制作依頼し、この世に蘇らせる。

制作過程の中でモチーフは徐々に変わっていった。故人の暗喩として腕時計を外す仕草から、腕時計に両手を添え、文字盤をこちらに向けて微笑む姿へ。時間は止まるものではなく、彼岸とこの世を境界に、流れ続けるものと捉えなおされた。文字盤に時刻は描かれなかった。絵の中の惠里子さんと、ご両親の流れる時間が違うことを意味しているのだろうと私は解釈している。

『どうせなにもみえない』と傍らに置きながら超絶精巧で描きつづける姿勢は、どこか矛盾しているようで、途方もない覚悟を帯びて見える。私は他人を分かろうとする思考とはずいぶん前に距離を置いた。けれど、人のことは嫌いになれない。どうせなにもみえない、けれど、人と関わっていくことを諦めきれない私は、彼の描く絵に胸が痛くなるほど惹きつけられた。