自画像

このブログを作ってもうすぐ10年になる。親しい友人に対しても弱音を出すのが嫌いで、学生だった頃も、社会人になってからも、限界に近づきそうになるとここに逃げてきては泣き言を書いていた。数記事書いては数年放置して、また我慢できなくなるとここに戻ってきた。そのたびに、昔の自分と再会し、共感できずに全てを削除ということを繰り返した。

今年になり体を壊してしまったことで、また取り留めもなく書きだした。逃避行であるが故に、どの記事も外に向かっていくそぶりがほとんどない。

次第にブログを通じて素敵な価値観や言葉を紡ぐ人を探すようになった。映画や小説や出来事そのものよりも、その人が何を感じたのかを読み、想像し、照らしだされた感受性に幸福や悲哀を思った。そのいっぽうで筆者の言葉から反射して見えた私自身の姿に苦しさを覚えることもあって、コメントをなかなか残せない代わりに、ひっそり星をつけて応援するようになった。

始めることが意志だとしたら、終わらせることも意思なのだろう、逃避行としてここを作り、10年も終わらせられないままの私は思う。

過去の記事を読み返しても、遠い記憶の彼方に作ったこの場所を依り代に、あまりに救いを求めている。その救済によって、いったい何を許してもらいたいのか。

明白だった。20代のほとんどすべてを傾け、悲しみや喜びのかたわらに常に存在したものを、体を壊したことで決別しようとしている、そんな私自身が許せないのだ。

問題が理想と現状のあいだにある乖離のことを指すとしたら、現状を問題にすり替えることは偽りでしかないし、乖離を埋めるための工程を問題解決と呼ぶのなら、ないがしろにしたある日の休息や悲哀も別の意味を持つようになった。

得体のしれない虚像に打ちひしがれ、それでも引きずる脚でまた踊ろうと思える日があった。悲しみに嘆く日も、あなたが積み上げてきたものを心の片隅に認めるようになった。過去にあなたが培った経験やスキルは、私を責める矛ではなく守る盾だと知った。机に向かう時間は祈りに姿を変えた。何と何を左右の手で合わせるのか。過去から地続きに生きる私と、未来の私を合わせるためだ。

頑張っていない人など、この世にいない。

私は、あなたを誇りに思っている。───また飛べるさ。

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